窓のこと
パリに住んでいた頃、僕は二十歳を迎えた。その後まもなく、僕は初めてニューヨークを訪れた。季節はクリスマスの頃だった。夕方、JFK空港に到着した。ニューヨークの日没がこんなに早いものだとは知らず驚いた。そのニューヨークの暗闇は、僕に孤独と寒さと不安を、より深く感じさせた。JFKからマンハッタンに向かうバスの中でのことを、僕は今でも忘れない。
僕はドキドキしていた。前の席にいた2人の男性はスペイン系だった。ずっとキスしていた。後ろの方では中国人達が大きな声で、再会を喜んでいるかのようだった。それとは対照的に、隣では黒人の家族がうつむいて座っていた。寂しそうだった。父親らしき男と、男の子が3人、母親がいない家族なのだろうか、と僕は勝手に想像した。すると自ずと孤独だとか、不安だとか、寒さだとかが僕にまた襲ってくるようだった。
憧れのニューヨークにようやく着いたばかりだと言うのに、僕は切なくてたまらなかった。幼い頃の自分を重ねてみていた、その母親のいない無言の家族を、何度もチラっと覗いては、外の景色に目を移し、その気持ちを抑えようとした。でも無理だった。それはその家族の佇まいが切ないだけではなく、ガラス越しに見えるその風景こそが、むしろ僕を切なくさせていたからである。
一戸建ての閑静な住宅街が続いていた。それぞれにクリスマスの飾り付けが厳かになされて、僕は見惚れていた。玄関、庭先、ドアや窓、屋根、テラス、植木に至るまで。天使の存在なんて考えたこともなかったが、僕はその時少しだけ天使を思ってみた。そのデコレーションの小さな灯りのひとつひとつに家族の大切さみたいなものが滲んで見えた。特に窓に感動した。それぞれの個性で飾られた窓枠、その中から溢れんばかりの家庭の温もり、そしてそこに優しく浮かぶ家族のシルエット。そんな時、黒人の家族がバスから降り去った。僕は思わず、彼らもそんな窓の中に戻って行くことを心から祈らずにはいられなかった。
その途端、僕は度肝を抜かれた。バスが最後のカーブを曲がり、僕の目の前にマンハッタンが一面と広がったからだ。僕は少年だった頃からこの風景を心に抱いていた。成長するにつれて僕の憧れは深まり、いつしかマンハッタンへ行くことを夢見て僕は大きくなった。視界いっぱいに広がるマンハッタンの摩天楼。それは僕が心にいつも描いていたものだった。圧倒的なその光景に打ちひしがれ、釘付けになっていたその最中も、バスはマンハッタンに向けて前進していた。そしてついに摩天楼が僕の視界に収まりきらなくなった地点辺りから、僕は自分が妙な気分にさらされていることに気が付いた。
それは、緊張しながらも憧れのこのニューヨークに、初めて到着しようとしているにもかかわらず、僕はなぜか、僕自信が生まれた場所に戻って行くかのような感覚を味わっていたからである。緊張しながらも、心のどこかに居心地の良さを感じていた。僕が子供の頃から求めていたものすべてがそこにあり、そして、それらはまるで手を広げ僕を迎えてくれているかのようだった。
切ない気持ちなど、もうどこかに消えていた。もう一度バスの中から僕はマンハッタンのビルを、ダウンタウンからアップタウンまで見渡した。そこにもやはり、窓がいくつも見えた。そして、それぞれの窓からは、やはり優しい灯りが漏れていた。僕はそれらを見つめながら、窓は人間の生活の象徴だと思った。何万と見えるその窓の明かりに、人間の暮らしの最も根幹である家庭とか、家族とか、日常、仕事場、そう言ったものが滲んでいることに僕は気付いた。
マンハッタンにたどり着いた時、僕はすでに、マンハッタンを心底好きになっていた。求めていたすべてはそこに存在し、本当に皆、僕を優しく迎えてくれた。
それ以来、僕は窓をコンセプトに絵画やガラスを制作してきた。ありふれた日常の、しかし人間にとって最も大切な毎日の営み。その象徴である窓に、肝心な何かがあるように思えて。
彼女に出会ったのは、僕がマンハッタンに来てしばらくしてのことだった。彼女の自慢は、故郷のテキサスと、彼女のアパートから見える景色だった。そのダウンタウンにある彼女の小さなアパートをいつか僕は訪れた。窓から見えるその景色を僕に見せるため、彼女は天気の良い、ある日の午後を選んだようだ。
簡単な椅子や机があって、佇まいに大した特徴がないアパートだった。窓にはカーテンさえなかった。そして窓辺にその木製の椅子を運び、僕を座らせた彼女は、待ちきれず、窓を一気に開けてみせた。言葉に出来ない感動で胸が熱くなった。涙が出てきたから、彼女は心配そうに僕を見つめて、それでも自慢そうに、そして得意げに微笑んでみせた。群青色の空高く、そびえ立つツインタワーがそこに凛と構えていた。本当に綺麗だと思った。しばらく眺めていた。
感動的な瞬間が静かに流れていた。今日が昨日にかわるまで、僕はツインタワーをずっと眺めていた。現代、自由、希望、デモクラシー、平和、夢、未来、愛、家族、仕事、人生、そんな言葉達を、ツインタワーは僕にめがけ放っているような気がした。それらは僕の大好きな言葉ばかりで、同時に僕の人生を支えてくれている言葉達でもあった。
その後、僕はイタリアに移り住んだ。
2001年の9月、僕の自由や、夢や希望が崩れていくのをアメリカから流れてくる生中継の映像に見ていた。神経がいかれた。僕は完全に破壊された気がした。
大好きだった窓達がひとつひとつ失われていく。
いつの日か自由になれると信じて生きていた窓達が殺されていく。
希望は残骸と化していく。
家族が死んでいくのをテレビ越しに見るのはどんな気がする。
昨日まで働いていた仕事場が崩壊していく瞬間に、あなたは何を思ったのですか。
傷ついたデモクラシー。
穏やかな日常にまた出会えますか。
平和だった世界の痛ましい最後の日。。。
いつの日か彼女の窓辺に腰掛けて、現代の自由の最先端を眺めていたのは、ずっと昔のことだったのでは、と錯覚してしまいそうだ。そして、僕が憧れた窓達は、そこにもう存在しない。僕は深く傷ついた。僕の中の何かが抹消された気がした。
動揺し混乱した僕の目の前に、灰色の煙の中から哀れな面影もない瓦礫の山がとうとう姿を現した時、ひょっとしてこれから先、何もかもが不可能になるのかもしれない、と一瞬そう思った。今までの夢は幻で、ここから世界は、長い坂道や暗いトンネルに差し掛かるのだろうか、と想像したその瞬間、父の言葉が脳裏に浮かんだ。その言葉は僕が一番信じたくない言葉だった。それを伝えようとした父を理解できなかったし、ありえないと思った。僕の人生には必要ない、僕の思想や哲学には無関係だと。その言葉を病院のベッドで書き残し、そして父は植物人間となった。
「人生とは重い荷物を背負い、長い坂道を登っていくこと。」
もう強がる必要はどこにもなかったから、僕は自分自身の心の成長をそこに見出すことが出来た。しかしそれを認めることは、残酷な行為だった。なぜなら、それまでの自分自身の過去や、かつての希望を、自ら否定することだからである。つまり僕にとっての自由の象徴、ツインタワーに別れを告げるということは、昨日までの僕自身にさようならを告げることなのだ。そう痛感した。テレビの画面越しのその有様に僕はとことん困惑していた。そして、いろいろなことを考えた。
それでも目を閉じると窓がくっきり浮かんでいた。無傷だった。優しい家族の温もりに溢れていたし、希望の輝きを奪われてはいなかった。決して強がっているわけではなく、僕の素直な感情だ。
僕が多感だった頃、これが真実で、これが僕の人生で最も大切なものなんだ、と直感したいくつかのことがある。やがて僕は大人になった。しかし今現在でも僕はそれを信じて生きている。僕の直感はいかなるテロリストにも破壊されることはない。だから僕はもちろん今でも窓を信じている。そして、僕の窓からはいつでも自由や希望が見える。そして家族の温もりに溢れている。不変の普遍なる普通の日常がそこで営まれている。多くの人を僕の窓辺に招きたい。大切なものを共にみつめたいから。
あの頃28歳だった彼女が今どこでどんなふうに暮らしているのか知るすべもないが、恐らくもうあそこには住んでいないだろう。僕は今でも時々、彼女の窓を思い出す。あの古い椅子に腰掛けて、外の景色を眺めてみる。群青色の空は、今でもそこにある。大きな雲が流れていく。世界は何も変わらない。
僕はもう一度信じないことにした。
土田康彦 2003年 正月 ヴェネチアにて