TSUCHIDA YASUHIKO - 土田康彦

『遠い祖国を思うとき』

遠い祖国を思うとき、私は静かに目を閉じる。雪が溶け、サクラの蕾がはずむ頃、やがて植民地に陽は昇り、島は希望で満たされるであろう。ねじれた過去はそろそろ捨てて、錆びれた大砲は溶解させて、花壇に水をまくように、未来が少しずつ潤ってゆく。遠い我が祖国を思うとき、私は静かに目を閉じる。

『遣らずの雨は土砂降りで』

遣らずの雨は土砂降りで、それはまるで芸術の神が僕を激励しているかのようだ。だからまた、しばらく工房にのこり、僕は制作を続けた。ムラノ島の向こう側、間もなく陽が昇る。

『真の理想を』

理想を高めれば高めるほど、自ずと道は厳しくなる。避けることのできない社会との衝突を繰り返し、いつの間にか世間からはじき出されてゆく。孤立してゆく。大切なのはその瞬間だ。その瞬間を孤独に感じるのではなく、凛とした姿で、孤高に気高く振る舞ってしまえ。真の理想を掲げているのであれば、私たちはもっと強くなれるはず。

『一寸先は光』

『一寸先は闇』そうなのだろうか。。。連戦連敗の私にとっては『一寸先は光』としか思えない。そして、自分とその一寸先の光の間、そこには高く分厚い壁があるが故、私は闇の中で潜水生活を強いられている、と言っても過言ではない。しかし、その壁を乗り越え、全身で光を浴びることのできる瞬間を夢みて、私は闇の中でもがき続ける。だが、『暗闇で展開する潜水生活=(イコール)不幸せ』ではないのである。私は心底そう信じている。つかの間の光でもかまわない、それを求めて全力疾走しながら日々を送ることこそ、生きている証なのである。それこそが人間の幸福なのである。つまり孤独ではなく、孤高な、希望に満ちた人生を私は歩んでいるのです。

『強い人』

ありふれた日常の起き伏しのなかに、さりげない美しさを見つけることのできる人こそ芸術家であり、複雑で困難な時代の営みに、いくつもの小さな喜びや驚きを感じることのできる人こそ、幸福な人間なのである。それは笑顔であり、笑顔の人ほど強いものはない。

『芸術について』

芸術を生むこととは、現代の退屈を斬ること、一般的視点を斬ること、不安を斬ること、風を切り、過去を斬り、そして裏切ること。

『売れなかった頃』

売れなくて、もがいていた若き頃を良くきかれる。「苦しかったですか」って。
今だからこそ言うけど、確かに苦しいこともあった。しかし、決して不幸な日々ではなかった。毎日が楽しかったからである。いや、人生においてもっとも面白い時代だったかもしれない。

『私の理想』

孤独に打ちひしがれているのではなく、孤独に孤立しているのでもない。闇に包まれたまま、そびえ立つほどの力強い孤独。凛とした姿。そんな孤独こそ私の理想なのである。

『真実がそこにあると思う』

もうすぐ、ラグーナに陽が顔をのぞかせる頃だろう。もう少しだけ、もう一歩だけ、私の心に描いた形に接近するように、と試みたが、前進すればするほど、そこには新たな世界が広がっていた。芸術の真実がそこにあると思う。

『何もいらない』

毎日、がむしゃらに仕事が出来るのなら、私は何も必要としない。

『ハーリーズ・バーに在籍していた頃』

ハーリーズ・バーに在籍していた頃、私は徹夜で絵を描いた。売れなかった。しかし、あの頃はすべてがポジティブに見えていた。今は違う。不安だ。ひょっとしたらすべてが不可能にも思える。

『努力とは便利なもの』

研究は一生終わらない。アートなるものを深く追求したい。芸術を極めたい。そのために努力する。自分の好きなだけ努力する。いつまでも努力したい。生涯努力を続けたい。それを自分がやめない限り、それは絶えることはない。こつこつと、黙々と、少しずつ、いつまでも続ければいいだけの話だ。誰に左右されることもあるまい。努力とは便利なものだ。

『芸術が生まれる瞬間』

流れて行く風に身を投じることは、芸術を生む行為ととても良く似ている。身体が触れたもの。それは流れ去るものの最後の部分と、押し寄せてくるものの最先端だ。それを同時に触れているのである。時代であり、文化であり、歴史であり。。。その瞬間に芸術は生まれるような気がする。

『作家の精神』

進化する現代美術作家の精神は、例えば凛とそびえ立つガラス張りの高層ビルのようなものかもしれない。ビルそのものは少しも変化することはなく、一方周りの風景や環境は常に変貌していく。だからビルの外観はその様子を時代とともに正確に映し出している。2000年代という時代が幕を開け久しい。そして想像を遥かに超えていく様々な事柄に世は見舞われた。誰もが不安を抱えているのだろう。しかしだからこそ我々芸術家は、何かに突き動かされるようなこの感覚をごまかしてはならない。いやこの感覚と真摯に向き合わなければならないのだ。そして自分の意志と自分の肉体によって、何が何でも前進しなければならない。力強く自身の足で。必要なのは勇気なのである。

『偉大な人は人を許す』

彼は人を許す。許された者は、後に皆成功した。まるで彼のように。
(アリッゴ・チプリアーニ氏に感謝して)

『心の旅、芸術に乗って』

私の中で何かがおきている。つまり心の変化。自分の想像を遠く超えて行く。そんな力が芸術にはあり、私は今、それに乗っている。
発進する。ぐんぐん進む。離陸する。加速する。そして爆発する。

『両立論』

絵画の制作で多少なりでも進歩をすれば満足感を得ることが出来る。私は嬉しい。それはガラスの制作にもリズムをもたらす。またある日、ガラス制作現場で、作業が順調に展開すれば、自分自身に上達を感じることもある。それもまた絵画の仕事に効果的なリズムを奏でてくれる。

『僕と楽器』

僕は身勝手な人間だから。
楽器は僕が一緒にいたいと思う時、いつでも一緒にいてくれる。
僕が語って欲しい時にだけ、楽器は語ってくれる。
優しくささやいて欲しい時、
激しく打ちのめされたい時、
いつでもちゃんと応えてくれる。
黙っていて欲しい時は、楽器を弾かなければいいのだ。
生涯を共にしよう。

『結果とは小さな作業の積み重ね』

小さく細かいこと1つをミスしても、大した違いは生じない。しかしミスを連続することは許されない。結果とは小さな作業の積み重ねなのだ。いくつものミスが重なれば、必ず悲惨な結果が待っているであろう。

『嘘と真』

嘘と真が共存する悲しき世界、私は自分の目で方角を定め、自分自身のこの足で一歩一歩を歩むしかない。そう思うのです。

『制作とはつまり』

私が描きたいもの、つまり真実が、さっきまでは明確に見えていた。それは案外スムーズに僕の目の前に現れてくれた。私はそれをしっかり受け止めようとする。しかしそうそればするほど、真実は遠退き、私との間に霧が発生する。
制作とはつまり、霧を取り除く作業なのかもしれない。それがすべてだ。

『限界の、そのもう一歩向こう側へ』

限界の、そのもう一歩向こう側へ。そして、もしそれが実現しても、決して満足だけはしてはならない。

『社会と芸術』

作品に社会風刺など加えたくない。最近の私はそう思っている。しかし、制作の前に世の中を良く見て観察して、それから手を動かしたい。

『二重人格者』

制作の段階でいつも思う。「うまくいっている」と。同時に、「すべてが嘘だ」とも。こんなものを作りたかったのではない、と、途中でそれを破壊したくなることもある。完成までの道のり、私は全くの二重人格者なのである。

『美について』

不吉な美しさ、切ない美しさ、不透明な美しさ、重々しい美しさ、鋼のような美しさ。美しいものでも、深い内面性を秘めたもの、ただ美しいなんて、もう美しくない。

『僕が一番星を探す時』

誰かが言った。
「いつまでも純粋な気持ちが続くことはない」
悔しいけど、悔しいけど僕もそう思う。
「あなたのお母さんは星になったのよ」
母が死んで、幼い僕に周りは言った。
冬は良かった。日暮れが早いから、もう夕方になれば、すぐ母を探した。
冬の一番星は透明だった。鏡のようだった。遠退く過去はいつの間にか消え去ったが、失ったものだけは鮮明に思い出された。雨上がりの夜空に一番星、壮大な夏の銀河を覚えている。秋の一番星は記憶をかき立てた。移り行く季節なのかで一番星の輝きにも変化を見つけた。少年だった僕は「モノノアワレ」のような、そんなものを自然に学んだ気がした。また1年が流れてきた。サクラの香りと共に。春なのに背中のどこかにトゲが潜んでいて苦痛だったが、それにも慣れたことに子供心に気がついた。母が亡くなってもう何年になるのだろう。少年時代の僕の特技、昆虫採集と一番星を誰よりも早く見つけること。ついに僕は母より年上になったしまった。不思議な違和感。それでも僕は一番星を探していた。もうすぐ40歳、今では子供と一番星を探している。一番星を誰よりも先にみつけるコツを教えたが、僕がそれを見つける理由は、まだ教えていない。
「いつまでも純粋な気持ちが続くことはない。」
不変なる純粋な形。それはほぼ奇跡に等しいことだが、不可能なことではない。
母が一番星になってもう何年になるのだろう。
そして僕もいつかは、我が子の一番星になるのだろうか。

『ギロギロとした眼差しで』

まぶたで夢のひとつひとつを握りつぶし、夜空の彼方まで歯ぎしりを響かせろ。そして涙さえなき眼を開く時、それがギロギロしているならば、君はもう一度戦える。君は何度でも戦える。

『太陽の光』

情報を伝えてくれるような芸術がある。一方で、何の情報性もなく、ただ真実をそのまま形にした芸術もある。たった一条、雲を貫く太陽の光のような、あの痛烈な美しさや劇的さは、やはり前者にはない

『小手先の冒険心』

小手先の冒険心から溢れ出る偶然性の戯れに酔いしれて、つま先の辺りに転がる普遍性の重要性を見失う。未熟な好奇心を絞り出した貧しい才能の外見は、成熟された伝統のそれに比べ、遥かに明快で華やかである。